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bo-bo-記 rec.0113 01.04.04 「長い鬱のトンネルの中で見た『松本紳介』『御苑の桜』そして『モンロー展』のこと。」 |
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そんな待ちの最中、ポカリーンとテレビを眺めていると『松本紳介』というどうやら春の新番組らしきモノにあたった。島田紳介と松本人志、二人きりのトーク番組らしい。頭のいい芸能人島田“紳介”と頭のいい芸人“松本”人志。頭のいい二人が番組を仕切るとどうなってしまうのだろう。どっちがイニシャチブを取るのだろう。松本は紳介にキレずに番組を続けることが出来るのだろうか。要らぬ 心配が頭を駆け巡る。駆け巡るのは青春だけにしてほしい。吉本興業の稼ぎ頭の二人ゆえ、キットお互いのワガママから展開がチグハグになってしまうのではないか、個性がぶつかり過ぎてしまいショートしてしまって“笑い”が空回りを続けるのではないか。そんなどうでもいいよいうな期待を持って僕は番組をなんとなく見ていた。ところがだ、そんな期待に反して番組は安定した“笑い”を流しているではないか。なぜかまとまっている。もちろん“キチン”とではなく“イヤイヤ”まとまっている。それもそこそこ面 白い。これは何だろう。たしかに面白いことは面白いのだけれど。それはまるで“笑い”のマニュアルみたいなもので“笑い”の持つ毒の面 白さはまったくと言っていいほどみあたらない。特に松本の“笑い”に狂気がない。松本が年上の先輩、いわゆる兄さん、と一緒に番組をやるのは彼が売れてからは初めだと思う。相方の浜田とか年下のお笑い芸人と一緒のときにはいつもヒール(悪人)に徹する松本。ヒールになり自ら毒を放ちそして笑いを取る。これが彼のやり方で、見ていてとても気持ちがいい。松本自身が自らを普通 の人よりも落とす(下げる)。自分をどうしようもない極悪非道人にまで落とし、バカにして笑いを取る。一見簡単そうに見えてこれがなかなかみんな出来ない。特に大阪出身のお笑いの人達は田舎者ゆえのプライドの高さが邪魔をして出来ないのが普通 だ。みんなフリは出来る。落とすフリだ。でも、それはあくまでフリであって、本心ではない。一般 人より自分は下のフリをしていて、本当は一般人をとてもバカにしている、もしくは恨んでいる。これはたくさんいる。島田紳介もこの類いの人だと思う。しかし松本は違う。ハナから自分を下げている。本音からそう思ってやっている。いや、ホントのホントは違うところにあるかもしれないが、とりあえずそう見える。そんなことが出来るヤツは松本と『とんねるず』の石橋以外僕は知らない。島田紳介の笑いの質が今ひとつウサン臭いモノに見えるのはこのここいらに理由があると思う。紳介は“人々に同情しながら人を差別 する人”そんな風に見えてしまう。役者で言えば武田鉄矢。そう、紳介の笑いは武田鉄矢の演技を見ているようだ。本人が大声で熱演すればするほど説得力を欠き、見ているものをシラケさせる。一生懸命、人とはこうあるべきですよ、と喋っている君が一番わかっていない。そんな状態だ。もちろん紳介にもかつてはイイ時代はあったし、あの歳まで一線でお笑いをやっていること事態並大抵の努力ではなかったはずだと思う。しかし松本と組んでしまったがために彼の欠点が次々に手に取るように見えてしまった。以前の紳介は、自分を見失うことのない冷静さと臆病さ、それにカタチとしてのミエとハッタリのかまし方、これらを全て兼ね備えた芸人さん、というのが僕の印象だった。しかしそれは歳月と共に松本へと引き継がれ、紳介はただの芸能人になってしまった。芸能人に成り下がってしまった芸人さんは粗を隠すために自分にないキャラクターの人物を相方に据える。そう思って紳介の番組の相棒を見ると、なるほど、みんな彼の粗を隠す道具でしかない。それが悪いとは思わない。そうでもしないとこの世界、生き残っていけないのはわかっている。しかし今回は相手が悪かった。松本は道具ではなかった。松本が凄いところはそんな彼と組みながらも彼のソコを馬鹿にすることなく、あくまでも兄さんとして立てながら自分を落とせるだけ落とし(下げれるだけ下げ)、彼が困るからかいつものような高いテンションでは決してソコには存在せず、静かに受け答えをし、淡々と自分のポジションを守っているところである。これはいぶし銀でしか出来ない技だ。自分より上の人と組んでアレが出来る松本はバケモノだ。本当に凄い。紳介には可哀想だが器が違うという感じだ。 あっ、ちょっと待ってくれ、一体オラは何を言おうとしているのか訳がわからなくなってきた。まあ、いいか。“鬱”だから。 話を変えよう、新宿御苑の桜を見に細君と出掛けた。今年最後の桜ということで多くの人でにぎわっていた。青春真っ盛りの学生服姿の幼いカップル。スカートからパンツが覗いていてお徳。ダンディーなオジサマと美形のOL。こちらはお徳感はなかったがイヤラシさは倍増。カメラ片手の田舎者のオヤジとピンク地ミニスカワンピースの田舎娘。こちらのカップルはイヤラシさのみで悲しい笑いを誘う。いろんな人達が桜の下でもだえている。でもココの桜がいいところはアルコール類持ち込み禁止のため、酔っ払いがいないことだ。自分は桜が嫌いだとずーっと思っていたが、それが間違いだったことにこの歳になって初めて気づいた。オラは桜が嫌いではなく桜に群がって来る人間が嫌いだったのだ。花見をいいことに狂ったように羽目を外しすぎる人達を見ると同じ人間として、とてつもなく空しさを感じてしまう。昔から酒やドラッグをたしなむことが出来ないオラは、人の人格がアルコールとか薬によってイキナリ変わってしまうことに、ものすごく恐怖を覚えてしまうのだ。こわい、こわい。気が狂うほどこわい。きっとオラが酒とかドラッグにハマルことが出来る人間であったなら、こんなに“鬱”と付き合うこともなかったろうなぁ。あっ、でもきっとアル中かジャンキーになっていただろうなぁ。どっちがよかったんだろう。まあ、いいか。 桜を見た帰り道。新宿のデパートに寄ってマリリン・モンロー写真展を見た。戦時下、数え切れない数の兵士の前で歌を歌った時の彼女の姿が印象的であった。彼女自身、その瞬間何も怖いモノがなかった、と語っているほどで。たぶん彼女が、生涯で手にすることの出来る全てを手中にした瞬間、だったのではないだろうか。スターとかカリスマとか言う言葉が安っぽくなくピッタリくる写 真だった。しかし、モンローも鬱的な人だったらしく。晩年の彼女の写真からは《彼女のココロに刺さった棘の数々》が写 真から見て取れて、とても痛々しく感じた。でも、いちばん怖かったのは。モンローの写 真の端っこに写っていたビビアン・リーの姿だろう。狂ってしまっている自分を必死になって隠そうとしている。とても隠しきれないほど狂ってしまっているのに・・・・・。こわいことです。ビビアン・リーとマリリン・モンロー。二人とも自己コントロールが利かなくなったアンドロイドのようだ。素直な人間臭さが全く見えない。悲しいことだ。スターと呼ばれる人間の晩年はどうしてみんなこうなのか。何処かに幸せに死んでいった大スターは居ないのか。人生やはりバランスだ。鬱、鬱。 家に帰ったら、芸術文化振興基金から《演劇活動の助成金交付についての通知》が来ていた。結果 は不採用。やれやれ、これで当分演劇ともお別れだ。さて、どうするか。どうにかなるさ。本当にどうにかなるのか?どうにかするさ。鬱、鬱。 久しぶりに血液検査をして肝機能のチェック。数値は正常値。ホッと安心。これで“鬱”のトンネル脱出か?しかし、フジテレビのニュース・ジャパンという番組で5日にわたりC型肝炎の特集を見る。あらためて自分の病気の重たさを再認識。感染者の人々は一応に“死への恐怖”と戦うのが本当にシンドイと言う。イヤなくらい、よーくわかる。再び“鬱”の気が部屋の中を支配する。でも、どうにもならないことだ。どうせ特集してくれるのだったら、明るい話題を提供してほしい。可哀想ですねー、でおわってほしくない。そう思う。 で、本当になんとかなるのか?
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