bo-bo-記 rec.0126 01.07.03



41」
  


 41回目の誕生日がやって来ました。ああ、この[bo−bo−記]も一年を迎えたのですナー。だいたい約三日に一編、ここに文章を書かせていただいたことになる。三日坊主にならなくて良かったナー、というのが正直な感想でございます、はい。 というわけで(どんなわけだい?)、誕生日恒例(恒例といってもまだ二回目だゾ、まっ、いいか)山田風太郎「人間臨終図巻」より四十一歳で死んだ人々、の中から面 白い部分を抜き書きしまがら参りましょう。

 まずは、マジェラン―この史上最大の航海者は最初の世界一周の道程の三分の二を実現しながらも実につまらない最期を遂げたのでした。1521年(日本で言えば武田信玄の生まれた年)04月26日、フィリピン群島中のマタン島にて裸の土人たちが投げた槍が身体に突き刺さり死亡。 残りの航海はマジェランなしで行われたそうです。

 次に今川義元(1519〜1560)―この方も“こころざし”三分の二にして、これまた織田信長軍の服部古平太の突いた槍をきっかけに死亡。

 小栗上野介(1827〜1868)―明治元年、元幕府軍艦奉行小栗上野介忠順は04月06日、烏川の河原にて斬首。二十二歳の隊長原保太郎は刀をとって背後に立ったが、どうも斬りにくいので、棒でその腰をついて、「もっと首を下げろ」と、いった。すると上野介は凄まじい顔色でふりむいて、「無礼者」とさけんだ。原の刀はふり下ろされた。一太刀ではうまくゆかず、三太刀目で首を斬り離した。この粗暴な隊長原はのちに、明治四十四年四月、当時府立一中に入ったものの学資がつづかず苦しんでいた谷崎潤一郎父子に助力を頼まれたことがある。谷崎は原家の書生になるものと思いこんでいたが、原はむろんその少年が後年の文豪になるとは知らず、知り合いの築地の精養軒に紹介した。 ちなみに谷崎は1965年七月三十日、腎不全により死亡、享年79歳。   

 河井継之助(1827〜1868)―明治元年、越後方面より会津に進攻しようとする官軍に長岡藩の家老として、五月二十日、会津説得の陳情をしたが官軍の参謀にはねつけられ、やむなく抵抗に起ちあがった。七月二十五日、長岡城を奪回するが弾丸に左膝を撃たれて倒れた。「人が聞いても傷は軽いといっておけよ」といい、「生命には別 状なかろうが、もう足は役に立つまいてや」と、いった。七月二十九日、城は再び奪われ、戸板にのせられたまま会津にはいる。八十里峠を越えたが、そのとき、「八十里、腰ぬ け武士の越す峠」と自嘲し、また、「死ぬことは覚悟していたが、こんなに痛いとは思わなかった」と、苦笑した。八月五日、会津只見まで来たとき、幕医の治療を受けたが、すでに手遅れであった。八月十三日、南会津の塩沢まで到着。つきそいのものに「永々厄介をしてくりやって、ありがたかったでや」と、礼をいい、八月十六日午後八時ごろ瞑目した。

 マタ・ハリ(1876〜1917)―彼女はただ金のためにドイツのスパイとなり、その魅惑的な肉体で連合軍の将校などを誘惑して諜報活動をしていた。マタ・ハリは終始容疑を否認したが、わずか二日間の裁判の結果 、死刑を宣告され、銃殺刑に処せられた。彼女は目かくしを拒否し、とりみだした風もなく刑場に立って、銃手たちを悩殺した。その妖艶な遺体は「解剖用」という札をつけて病院へ運ばれた。 彼女の遺体をどうしとのだろうか。きっと、狂った将校連中が屍姦したのだろう。恐ろしい。

 カフカ(1883〜1924)―死後、彼のひきだしから、唯一の親友ブロートにあてた紙片が発見された。それには「僕の最後の願いだ。僕の遺稿の全部、日記、原稿、手紙のたぐいは、一つ残らず、中味を読まずに焼却してくれたまえ」「僕の書いたものの中で、まず一応認めていいのは、すでに書物になった『死刑宣告』『火夫』『変身流刑地にて』『村医者』『断食行者』だけである。それだけを一応認めるというのは、それが新しく重版され、明日の人々に読まれたいと願うのでは決してない。そんなものがすっかり無くなってしまえばいちばんありがたいのだ。ただ、とにかく一度出版されたものだから、それを持っていたいという人々が所有しているのまで、禁止しようとはしないだけのことだ」と、書いてあった。それはレーニンの死んだ年でもあった。

 石田吉蔵(1895〜1936)―あのマラ切り事件=阿部定事件のマラ切られ男である。 お加代(=阿部定)は検事調書でいう。「石田の何処がよかったといわれても、ここといって答えることは出来ませんが、石田は様子といい態度といい、心持ちでけなす所一つもなく、あれ程の色男に会ったことはありません。四十二(数え年)とはとても思えず、精々二十七八に見え、皮膚の色は二十代の男のようでありました。(中略)また石田は寝間がとても巧妙な男で情事の時は女の気持ちをよく知っており、自分も長く辛抱して、私が充分気持ちよくなるように努力し、一度情交してもまたすぐ××になるという精力ぶりでした」。 女性にこんなに絶賛されるなんて、なんという男だろう。ひたすら羨ましい限りである。でも、だからこそ“ボッチャン”をチョン切られたとも言えるが・・・・。 吉蔵は最後まで、絞められるのも例の遊びだと思っていたかも知れない。しかしまた、ほんとうに殺されてもいいと思っていたかも知れない。いずれにせよ、おそらく死の恐怖も苦悶もない、極限までの燃焼と消耗と異次元の忘我と恍惚の中に、彼は息をひきとったのであろう。 山田風太郎も言う、石田吉蔵はこの『図巻』中幸福な死をとげた稀有な人間のベスト・テンの中の一人である、と。

大久保清(1935〜1976)―昭和四十八年二月二十日、ある週刊誌記者は前橋刑務所にて大久保のいまの心境を訊いた。「いくつかの思想的な変遷をへて、いまは虚無思想に近くなっていますね。立場でいえば共産主義です」と、彼はいった。「もし死んで生まれ変わるとしたら、何になりたいか」という質問には、「そうね、まったく思いもよらないことだが、しかし考えて見ましょう。そう、考えて見たいな」と彼は答えた。昭和五十一年一月二十二日、大久保は死刑場にひかれていった。

 他に尾崎放哉(1885〜1926)、放哉についてはrec.0013→「ホ・ウ・サ・イ」に詳しくでていますのでそちらを参照して下さい。憂愁の歌人・九条武子(1887〜1928)。作家の葛西善蔵(1887〜1928)。日本画家・速水御舟(1894〜1935)。「家あれども帰るを得ず 涙あれども泣く所を得ず」という、名文句を遺書に残した“大陸のマタ・ハリ”川島芳子(1907〜1948)。“走る哲人”アベベ(1932〜1973)、東京オリンピックで彼が金メダルをとったのが僕が4歳の頃の1964年、残念ながらその当時の記憶はない。

 ハァ、こうやって見るとものすごい方たちが41歳でお亡くなりになっているのですね。それにしても山田翁のチョイスの仕方は面 白い。アベベ、吉蔵、マタハリ、大久保清、と同列に遺体を並べてしまのだ。こういったところが山田翁の真骨頂だと思います、はい。 ここで少し自分の話をします。体の調子はどうかというと、昨年に比べると随分よいです。血液検査も三月に一度でいいと言われるぐらいになりました。心の方も向こうの通 りから“鬱”が歩いてきても、「こんにちは」と言えるようにはなりました。が、しかし未だに「サヨウナラ」を言うのがヘタクソで困ってもいます。あと、生命保険にも入りました。入ってみて思ったのですが、いまこうして僕が生きているより、思い切って死んでしまったほうが家族の生活が潤うのはこれいかに。中高年の自殺が多いのはこういった要素も含まれているのだと思います。自分に価値観を見いだせないとき、いっそ、そうすることによって価値を見いだそうとするのでしょう。死んでしまうのに・・・・・。 まあ、僕はチンタラしながらも生き続けるので御安心を、誰も心配していないってか、その通 りです、ハイ。 というわけで[bo−bo−記]一周年記念及び誕生日記念として作文を募集します。文章の面 白い人、一名様に豪華商品が送られますので、どしどしご応募お願い致します。テーマは主な[bo−bo−記]のネタ、

1:映画感想文
2:ビデオ○○連発
3:抜き書き
4:家族の話
5:自分の話
6:役者の話
7:演出の話

のなかで、嫌いなネタとその理由を書いて下さい。 絞めきりは、8月10日です。『bo−bo−感想文係』宛でお願いいたします。ではでは。

 あっ、そういえば。生涯41歳という、永遠の41歳がいるのをご存じですか。そのお方の名は、天才!バカボンのパパなのだー。

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