bo-bo-記 rec.0136 01.09.03



大蔵君とサトウ君」
  


 ちょうど10年くらい前、僕はエドワード・オルビー原作の二人芝居「動物園物語」を脚色して「ZOO」という芝居を造った。場所は佐賀町の[bis]というアートスペース。登場人物は、ごく普通 の妻子持ちのサラリーマン=ピーターと、ごく普通じゃない男=ジェリー、の二人。前者を大蔵君、後者をサトウ君という俳優さんが演じた。

 この芝居で僕は観客と演者の境界線を取っ払ってみた。スペース全体に落ち葉を敷き詰め、その中にポツンとベンチをひとつだけ置き、客入れ前からピーター役の大蔵君をベンチに座らせ、そこで本を読ませた。客入れと同時に芝居は始まっているという仕掛けだ。

 このころの僕は自分の演出の文法を確立しようと焦っていた。どうしたら、俳優が“役を演じる自分”と“普段の自分”との境界線を取っ払えるのか。どうしたら俳優個人の皮膚感が役の皮膚感にかわり、役=俳優個人になれるのか。俳優陣と一緒に、日々頭を悩ませていた。そして僕たちは各自いろんな意見を持ちよって、あらゆる角度から役作りにアプローチし、稽古に精を出した。

 大蔵君は子持ちの設定だったので、我が家の3人の子供達と遊ぶように命じた。実際は子守を押し付けたのだが、彼は一生懸命演技の足しにしようと頑張ったし、我が家の子供達も喜んだ。

彼はある日、
 「この役は女房持ちなので、女房をもらおうと思うのです。ちょうど結婚したい人がいるんです。大物女性歌手のMに酷似の人なんです」
 そう言った。

 おいおい、何もそこまですることはないだろう。それじゃあなにかい、君は殺人者の役が来たら人を殺すのかい。みんな役にハマリ込むのはいいけれど、現実は見失わないでほしい。その意気込みはヨシとしても、何もそこまでしなくていいと、僕は彼を戒めた。

 彼にとって、今回の役は一世一代の大役で、役者としての転機にしようとしていた。大蔵君は類い希な無自覚大根役者―無自覚大根とは大根役者のくせに自分で自覚していないこと―で、役者としての芽がでないのは世間のせいだ、と深く思い込んでいた。僕はこの「ZOO」という作品で、自分のダメさを彼がどこまで理解し受け入れてくれるかが勝負だと思っていた。人間、自分のダメさを解れば、本人も演技も変われるからである。ガンバレ大蔵、僕はいつもココロの中で祈っていた。

 サトウ君は大蔵君と違って己の欠点を知っていて、役者としては好感のもてる人だった。その風体と演技は一種独特で、アメリカ映画「スリング・ブレイド」の俳優で監督のビリー・ボブ・ソーントンにソックリだった。サトウ君もアメリカに生まれていれば個性的な俳優としてやっていけたかもしれないのにと、ビリー・ボブ・ソーントンの映画を観る度に思います。日本でいう個性派はアメリカで云うそれとは随分と違う。サトウ君のような一種独特な容姿を持つ俳優は、ここ日本では電波に乗せてくれないのが常である。スポーツの世界も音楽の世界もここ何年かで、日本人の感覚は随分と海外に対して恥ずかしくないぐらい成長しているのに、演技表現の世界だけは後退しているように思う。悲しいかな。

 大蔵君は女好きでスケベーだ。それに引き換えサトウ君は女のことを聞くと、怒ったように顔が真っ赤になるほどの男。大蔵君は仮性包茎でサトウ君はズルむけ赤チンポ。大蔵君は自称千人斬りでサトウ君は他称絶倫童貞。何事につけても正反対の二人だ。

 「ZOO」という芝居は、その日に公園のベンチで偶然出会った二人が、会話をすることによって、お互いの神経をむきだしにしていき、人間本来の持つ“愛”の意味を問いはじめ、ラストで大蔵君演じるピーターがサトウ君演じるジェリーを衝動的に刺し殺し、その死体を泣きなながらどこまでもかついで行くお話しである。

 無自覚大根役者の大蔵君は“泣けない”俳優である。彼の感情袋をどうつっついても泣いてくれない、涙が流れない。あげくの果 てに腕を目のところに持っていき、大衆演劇のような泣き方をする始末。お前は国定忠次か、僕は怒るより先に呆れ果 ててしまった。でも、役者なんだからなんとかこちらが感動できるくらいの涙を流して泣いてくれないと困ります。稽古は毎日、彼が泣くまで何時間も待つ日が続いた。そしてついに無自覚大根役者は稽古に来なくなった。仕方がないなぁ、そう思いつつもほおっておくわけにはいかない。とりあえず彼の家まで言って名前を呼んでみるが出て来てくれない。まるで子供のようだ、情けない。よし、彼を降ろそう。そう決めた。そして、そのことをサトウ君に告げた。

 そうしたら、
 「考え直してくれませんか」
 そうサトウ君は言った。
 「せっかく彼とここまで稽古をしてきたんです。考え直してくれませんか」
 「でも、彼のために作品の品質が落ちるようなことになってもいいのか」
 「僕はかまいません。ですからもう一度彼を・・・」

 サトウ君は真面目でイイ奴である。でも、これが彼の役者としての欠点なのだ。役者はある意味でもっとヒドイ奴でないと生きていけないのだ。でも、こういった欠点を持つバカ役者は僕は好きだ。サトウ君の共演者を思う気持ちにうたれた僕は、大蔵君のアパートに日参し続け、1週間後、大蔵君は恥ずかしそうに稽古に戻って来た。こうして大蔵君の首はつながり、また“泣き待ち”の日々がかえってきた。でも、大蔵君が引き籠もっていた間、こちらも次の手を考えていた。あまりよくない手だが、これしかない。彼の昔の体験から“悲しみ”を引っ張ってやるのだ。僕は彼に聞いてみた、

 「今までに涙を流したことある?」
 「あります」
 「いつ?」
 「高校のとき、親友が死んで・・・」
 「その親友の名前は?」
 「大門・・・・」
 「それで、泣いたのはどんな状況のとき?」
 「葬式で受付をしているときに・・・」
 「じゃあ、今からそのときの気持ちを思いだして再現してみようか」

 彼は大門の死と直面したときの気持ちを思いだし泣いた、いままで泣かなかった大蔵君がやっと泣いた。泣きじゃくる大蔵君をサトウ君が優しく抱きしめてあげていた。美しい光景だ。よかったよかった、これで稽古が進む。と、思ったら次にまた問題が持ち上がった。大蔵君の演じるピーターは禁煙している設定で、アルコールも嗜む程度の役柄だ。ところが大蔵君はヘビースモーカーで大酒飲みなのだ。僕は役の設定にしたがって禁酒と禁煙を彼に命じた。役者たるものそんなことしなくてもキチンと演じるのがあたりまえ、でも彼は無自覚大根役者なのだ。本人の努力でできうる役作りは、できる限りやっていただかなくては、芝居のリアリティが損なわれてしまう。本人も、シンドイながら役作りのために禁酒禁煙をかってでた。しかし、しかしである。またまた、大蔵君は稽古にこなくなってしまった。どうやら禁酒禁煙を破ってしまったらしいのだ。大蔵君が住むアパートのドアを無理やりに蹴破った僕たちが見たものは、布団の上でお尻の穴にタバコを差したまま寝ている彼と、机の上に転がっていた空になった神棚(当時の彼は怪しい新興宗教に嵌まっていた)のお神酒入れだった。もう大蔵君には本当に降りてもらおう、そう思った。が、またまたまたまたサトウ君が、

 「考え直してくれませんか」
 というので、またまたまたまた彼の意見に僕は従った。

 まあ、こんなふうに書き始めたらきりがないぐらいスッタモンダしながらも稽古は進み、そして本番を迎え。いつしかサトウ君と大蔵君は親友になりました。と、いう話を僕は書きたいのではなく。僕がどうしてダラダラとこんな話を書いているのかと言うと。この「ZOO」という芝居から10年経った今年の夏、サトウ君が死んだのです。一生懸命に大蔵君をかばったサトウ君が死んだのです。あの35度の猛暑が続いたある日、誰にも看取られずに、誰にも心配してもらえずに、誰にもかばってもえらえずに死んだのです。発見されたときには、暑さのため身体の一部が溶け出していたそうです。僕の家に電話をしてくれたのは大蔵君でした。「大門〜」と言って泣いていた彼が、「サトウが〜」と言って声を詰まらせていました。人が死ぬ のは悲しいことです。だからこういったバカバカしいことでも思い出して笑おうと思ったのですが、うまく笑えませんでした・・・・・・。

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