大湊神社 【oominato-jinjya】 総合の頁 | 安島の頁
安島

  式内大湊神社の由緒

 当社は白雉年間勤請と伝えられます。延喜式内の古社でありまして、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年二月二十日三頭の勅使が当浦に下向されて、三千七百石余の社領を御寄進賜わりました、夫より当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなりました。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。

 文治二年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス)
(公の宿舎は時の庄屋久末七平宅 当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています)

 後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして社領など加増せられました。天正年中迄は社家七軒にて社務が執行なわれていましたが、織田信長当国発向の砌 当社の社殿は兵火に罹り社領は又悉く没収されるところとなりましたので、慶長年間迄毎年二月二十日より陣ヶ岡に於て、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので七家の社司の内六家まで余儀無く餘業に転じ、このため当社の特殊神事として古くから伝えられました行事も行ひ難く遂に中絶の巳む無きに至りました。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向って
  「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」
と一声に唱えて矢を射られたと 又この状形を詠まれた歌に
  弥生三日浜のわらべの歌声に
   ややのおかかのかどさせと呼ぶ
      (天保三年古老の記録)
右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。

 その後福井藩主松平忠直公が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営 並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社十四社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、ここに漸く社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年二月二十日、二十一日(現在は三月二十日、二十一日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神事祭が行なわれるやうになりましてより現在尚奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡の神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行なはれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれます。

 明治八年旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、同四十一年幣帛供進社に指定せられました。同四十五年六月、元無格社大神宮祭神 天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神、元境内社八幡宮祭神 応神天皇を合祀しました。


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