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| 獅子頭について 町指定文化財 | |
高麗狗(こまいぬ)型の獅子頭で、高さが30.5センチ、幅35.5センチ、奥行38センチ。桧(ひのき)材で、頭部と下顎部よりなり、別材の舌が付く。丸いほぞ穴に耳を差し、鼻先は別材を寄せ、眉と唇上に束ねた毛が残る。全体は黒漆塗り、耳内側・目の周囲・鼻孔・唇・内側は朱漆塗り。特徴的なのは頭上についた耳が、垂れずに、ピンと立っていることである。頭部内側に「従五位下豊高」の刻銘がある(「豊高」の名は大湊神社神主松村家々系譜にその名がみられる)。 桃山時代の作と伝えられている一方、その漆の状態から室町時代とも云われるが、明確ではない。 例年3月20・21日(元は2月20・21日)に行われるお獅子祭(神幸祭)で、古くからの風習として、この獅子頭が神輿の上に乗せられ巡行していた。 普通、獅子頭は神楽を舞う際に使用されるのだが、この獅子頭は重量もかなりあり、舞いではなく神輿に乗せ巡行するために作られたものと考えられる。 昭和51年(1977)7月27日、三国町の文化財に指定される。 |
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| 島(石川県石川郡白峰村字桑島)の村名の由来 | |
下記の「高麗伝来御獅子略縁起」にも記述があるように、文武天皇の頃、異国が攻めて来た折、雄島の人々がおそれおののき方々に逃げ、その中の一群がこの高麗伝来の獅子頭を守って、白山のふもとに隠れたと言う。しかし、戦いがすんでもそのままそこに住みつき、雄島の名前をかたどり島村と名付けたことになっている。 また「当浦謂聞書」によれば、異国の兵が海上から攻めて来た時、高い所に登り遠方の兵船の敵情をうかがい見張る為に、雄島から人を差し向け白山に登らせたという。戦いが終わってもそれらの人々は帰らず、今の牛首島村は雄島の分村であるとされている。 |
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獅子祭りについては、昔は分村である島牛首と雄島が、一年交替に獅子祭りを行ったので、高麗伝来の御獅子を乗せた御神輿の受け渡しがなされた。その受け渡しをした岩があり、今も獅子が岩といわれているとの伝承が、「当浦謂聞書」に記されている。 一方「高麗伝来御獅子略縁起」には、鳴鹿(現丸岡町・旧鳴鹿村)に獅子岩という石があると伝えられている。さらに同縁起には、一年交替で獅子祭りをしていたところ、その後争いごとがあり島村から雄島へ御獅子を帰さなかった。ところが或る夜、自ら三保の社(大湊神社)へ帰ったので、島村の人は恐れかしこみ三保の社へおこもりをしお詫びをしたと述べ、「誠に霊験の御獅子なり」と結んでいる。 また言い伝えられている伝承に、雄島と対岸の洞穴(地名「どんど」)とを結ぶ線上に遠望する事が出来る白山のふもとに安島村の分村があるという。また獅子岩のある鳴鹿の地は、雄島と島村の中間にあるので、ここが御獅子を乗せた神輿の受け渡しの地点になされたのだとも伝えられている。 |
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| 「高麗伝来御獅子略縁起」 [原文に拠る] | |
当社第一の重宝御獅子と申奉るはその××高麗のけらと申す所より当社の神威仰き奉納××××より神輿に安置し祭禮の砌には神領十ヶ村へ渡し奉る事即当社の傅軌神威にてありぬ文武天皇の御宇夷等我国に×せしに松原の岡へ八百萬の神等集らせ給ひ当社の御神を御大将にて御対治ありける其の時当村の者共おそれおののきここかしことにけかくれけるか一むれの者共比の御獅子を守護し奉りて白山のふもとにかくれしか戦終りてもそこをさらず村居し男島の名をかたどり島村と名づく夫より祭禮の時節には御獅子を彼の村へ渡し奉るに鳴鹿の石上にて受渡しせしにより今に獅子岩と申す石あり其後事のあらそひありて彼村より帰し奉らさりしか不思議なるかなある夜みづから当社へお帰り在りしとぞ夫より彼村の者共恐れ恐れて三保の社へ参籠してわびし奉るその後彼村へ御渡の事はとどめけると誠に霊験の御獅子なり |
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