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| 神明社の由緒 | ||
社伝に往昔、越前国坂井郡坂井港字日和山に鎮座していた。坂井港は、三国浦・滝谷町・金鑄・道實嶋・平野・滝谷村と区別される。その日和山に鎮座の頃、天照皇太御神を一邑の産土神(雑学「氏神・産土神・鎮守神」参照)として、仰ぎ尊み奉っていた。ところが、男大迹皇子(継体天皇)が、当地旧字、枚岡という所に潜龍の時、国中水理の疎通せざるを憂い、常に国民を恤み給うて、三大河(日野川・九頭竜川・足羽川)を開拓し、西北銚子口へ疎通せしめられた。そこで、皇子は、枚岡を行在所となした。今に残る清王・清王畑・瀬井地名はこの故事によるものという。皇子が、皇嗣となり高志を離れられた後、潜龍時代の御徳をしのび奉って、産土神社に合祀し旧行在所に遷座して、枚岡神社称号していたという。(確證はなし) 天正年中(1573〜1591)織田信長の兵火を罹り、社殿・神器及び旧記等のほとんどが焼失し、社領も没収された。このころ社名を神明社と改称し、以来近傍町村八ヶ所の氏神総社として崇敬された。然るに、明治四年、近郷十八ケ村の郷社に列せられた。同九年、敦賀県より郷社廃止に伴い、村社に、更に明治十三年八月一日、郷社に再び列せられた。同四十一年四月二十六日、神饌幣帛料供進神社に指定された。また、昭和三年、氏子鳥野氏が、個人の寄進によって、神明造御本殿・神饌所・神楽殿等を新築、その経費は約三万円であった。なお、現在は合併合祀されたと思われる境内社の比古奈神社(祭神、比古奈命)は、社伝では式内「比古奈神社」に比定するが、確證はない。 また、神明社自体も、式内「枚岡神社」の論社の一社として知られる。式内枚岡神社の論社は、福井市、足羽神社の旧境内社、三国町北本町、氷川神社がある。神明社を 式内「枚岡神社」とするのは、社伝・明細帳のほかにも、『明治神社誌料』にも「延喜式神名帳に枚岡神社、同考證などにも記されたり」と述べている。 しかし、この神明社が拝殿・玉垣などの神社の体裁を備えるようになったのは江戸時代中期、元文年間(1636-1640)であって、それまでは氏子崇敬者の篤い崇敬を受けていたものの堂社のようなものであった。当時すでに三国の桜谷社(現、三国神社)とあい並んで、いわば滝谷の桜谷社として信仰されていた。性海寺が桜谷社の別当寺であったのと同様、神明社の別当職は滝谷寺竜泉院の預かるところであった。(慶長三(1598)年、竜泉院に下附された神明社地免状に拠る) |
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