事此処に至っては最早、ありとあらゆるもの殆ど総てが読めなくなっていた。世界を形作っていた言葉は尽くが消え失せ、今ではその断章すらも確かに掴み取ることは叶わない。
代わって自身を取り巻くのは永遠の暗闇、影の中に更なる影を孕んだ無限の漆黒。影は互いに融け合って一つとなり、その色をより闇色に深めていく。そうして今や唯一の闇だけが、果て知れぬ巨躯を底深い沈黙の内に伏臥させていた。自己はあたかも、暗黒の大蛇に丸呑みにされた生贄のようであった。
瞳には何も映らず、耳には何も届かず。匂いも味も無く、触れられる確かなものなど遠く失われて、身体の中心から放とうとした叫びは渇き切った喉に絡んで決して声にはならない。或いは放った声もまた、闇の底に溶け去ったのであろうか。
暗闇への拒絶が生んだ目眩に身体が後ろへ傾ぐ。後退りしようとして辛うじて踏み留まる。足下にも遙かな闇が這っている。退いた爪先はもしかしたら、二度と踏みしめる地を得られないかも知れないと畏れた。それが導くのは転落の果ての確かな死であると、直観が告げていた。
世界は言葉でできている。
ならば言葉が失われてしまったなら、暗闇に塗り潰されてしまったなら、そこにはもう世界は存在しない。即ち眼前の様相こそは、絶対の虚無に他ならなかった。
縋るように、目の前に立っていたはずの少年を探し求める。しかしもう、奪われた視覚にその姿は映らない。暗闇の何処かに消えてしまったあの少年は、つい先刻、穏やかな笑みを讃えて、それでいてまなざしには強い煌めきを籠めて問うた。
「君は真理
ほんとう を識っているね」
低く抑えた密やかな声音で、自らに念押しするように。
こうして目の当たりにしている光景こそが、少年の告げた真理の紛うことない具現であった。虚無の暗闇、完全なる有故の無差異たる混沌、それがこの世界の真実の姿。識りたくなど無かった。否、或いは少年が続けて言ったように、既に識っていながら認めたくはなかっただけなのだろうか。けれど今は、突き付けられた現実が逃れようもないままに揺るぎない事実を宣告している。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。真理に対する諦観
たいかん と現実を受容する諦観
ていかん 、そのどちらからも程遠い心境で空を仰いだ。そこにはまだ晴天の蒼が僅かばかり残っていて、日常世界の有り様、澄み切った大気を表現する言葉の欠片が揺れていた。そうして最後に遺された蒼空の、言葉の周囲からは総てが一続きとなった永遠の闇が迫り、今しもこの世の最後の断章を喰らい尽くそうとしている。意識をその小さな蒼に絞り込み、それ以外には為す術もなく、ただ今日の記憶だけを手繰っていく。そう足掻くまでもなく、自身を此処に至らしめた根源が脳裏に浮かび上がってくる。意識の過去にねじ込まれた恐るべき言葉が次々と浮揚する。
あの、女だ。
街角で目にしてしまった、白々とした陽光の内に昏く落ちた影、細身の姿が頭蓋を内側を殴りつける。眼鏡の奥から投げられた凍り付いた視線が胸の中心を抉り貫く。
歯噛みする。遭遇した時の感覚が、今や暗闇に浸食されて曖昧になった肉体と思考にそこだけ鮮やかに甦る。女から放たれていたおぞましい言葉が記憶から群れをなして這い出してくる。歪で穢らわしい無数の悪言。読んだ瞳から体内に侵入し、全身を腐敗させるかのように蠢く悪しき言葉。その記憶に、背筋を悪寒が駆け上がる。鳥肌が全身に発する。握った拳に爪を立て、その痛みで身体が震え揺らぐのを抑え込む。さもなくば、虚無に転落してしまうだろうから。しかしもう、そうして自身から生まれる筈の痛覚すらも定かではなくなっている。
あの女こそがまさに、災厄の元兇に違いなかった。
あの瞬間の、擦れ違いでしかなかった出逢いから、総ては始まってしまったのだ。
天頂を睨み続ける。僅かな蒼は深く暗い闇に刻々と削られていく。蒼と共に失われていく肉体と感覚と意識を、根源の混沌に回帰する世界を感じながら、ただ。
振り払うことも叶わぬ女の言葉を畏れ続けた。
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